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『貨幣システムの世界史〈非対称性〉をよむ』(黒田明伸)

黒田明伸の『貨幣システムの世界史〈非対称性〉をよむ』は、貨幣の歴史を単なる経済的道具の変遷としてではなく、社会的・文化的文脈における多様な役割とその「非対称性」を通して捉え直す、知的刺激に満ちた一冊である。本書は、貨幣システムをグローバルな視点から分析し、地域通貨と地域間決済通貨の異なる機能に着目することで、従来の貨幣史研究に新たな地平を開く。17世紀中国の銀と銅銭をめぐる論争を中心に、貨幣が地域経済の自立性とグローバルな統合の間でいかに緊張を生み出したかを丁寧に描き出す。

議論の核心:貨幣の「非対称性」

黒田の最大の貢献は、貨幣の「非対称性」という概念の提唱にある。これは、貨幣が単一の価値や機能を持つものではなく、取引の規模や文脈に応じて異なる役割を果たすという視点である。例えば、17世紀中国では、銅銭が日常の小規模取引を支える地域通貨として機能し、銀が地域間取引や租税の支払いに用いられる決済通貨として流通した。この二つの通貨は互いに独立した回路を持ち、完全な兌換性が保証されない「非対称性」を生み出した。黒田は、この非対称性が経済の多様性や地域の自律性を支える一方で、グローバルな銀の流入による外部依存という課題を浮き彫りにしたと論じる。

特に興味深いのは、17世紀中国の知識人、黄宗羲や馮夢龍らが「金銀を廃せ」と主張し、銅銭への回帰を唱えた論争の分析である。彼らは、銀の軽便さゆえの流出傾向が地域経済を不安定化すると批判し、銅銭の「重さ」が地域に滞留する利点を持つと訴えた。黒田は、これを単なる時代錯誤として退けるのではなく、地域通貨の自律性を守るための実践的な問題意識として再評価する。この視点は、貨幣史を経済的合理性だけでなく、社会的・文化的な文脈で捉える黒田の独自性を際立たせる。

グローバルな視野と歴史的ケーススタディ

本書のもう一つの特長は、貨幣システムを世界史の広範な文脈で扱う点にある。中国の貨幣論争は、環シナ海の交易ネットワークや日本の石見銀山、マラッカやビルマとの密貿易といったグローバルな動きと結びつけて論じられる。黒田は、例えばマリア・テレジア銀貨が18世紀から20世紀初頭まで紅海地域で流通した事例や、中世日本の基準銭と通用銭の二重構造を挙げ、貨幣の非対称性が地域や時代を超えて普遍的な現象であることを示す。これらのケーススタディは、単なる歴史記述に留まらず、貨幣が社会制度や市場の構造とどう関わるかを深く考察する材料を提供する。

また、本書は現代への示唆も豊富である。黒田は、近代の本位貨幣制が地域の流動性を埋没させた過程を批判的に分析し、現代のグローバル経済における通貨政策にも問題提起を行う。例えば、現代中国における現金取引の多さは、歴史的な地域通貨の自律性に根ざしている可能性があり、グローバル化の中で地域経済の独自性をどう維持するかという問いを投げかける。

目次の構成と議論の展開

本書の目次は、序章で「非対称性」の理論的枠組みを提示し、第一章から第五章で具体的な歴史的ケース(マリア・テレジア銀貨、環シナ海の銅銭、中国の秤量銀制度など)を分析、第六章以降で社会制度や市場との関係を比較史的に考察する構成となっている。この体系的な展開は、黒田の理論を歴史的事例で裏付けながら、読者に貨幣現象の複雑さを段階的に理解させる工夫が施されている。特に、第四章「中国貨幣の世界」や第五章「海を越えた銅銭」は、17世紀の銀と銅銭の論争を地域とグローバルな文脈で結びつけ、黒田の独自の視点を象徴する章である。

評価と限界

本書の強みは、貨幣を単なる経済的道具ではなく、社会的・文化的現象として捉える視野の広さにあり、従来の貨幣史研究に新たな理論的枠組みを提供している点にある。Jin Xuの『銀の帝国』が銀の流入と明朝の崩壊に焦点を当てるのに対し、黒田は通貨の非対称性を通じて経済の多層性を分析し、グローバルな視点を強調する。このアプローチは、貨幣史を越えて経済史や社会史に興味を持つ読者にも訴えるだろう。

一方で、限界も存在する。「非対称性」の概念は抽象的であり、具体的な史料の詳細が不足する場合があるため、専門家によっては解釈の幅が広いと感じるかもしれない。また、17世紀の論争を現代に直接結びつける試みは、歴史的文脈の違いを考慮するとやや大胆に映る可能性がある。それでも、これらの限界は、黒田の挑戦的な視点を損なうものではなく、むしろ学術的議論を刺激する契機となる。

結論

『貨幣システムの世界史〈非対称性〉をよむ』は、貨幣の歴史を単なる経済史としてではなく、地域とグローバル、伝統と近代の交錯として捉える野心的な試みである。黒田明伸の「非対称性」という概念は、貨幣が持つ多様な役割を浮き彫りにし、歴史的ケースを通じてその普遍性を示す。本書は、経済史や社会史に関心のある読者だけでなく、グローバル化と地域性の関係を考える現代人にとっても示唆に富む一冊である。落ち着いた論調と緻密な分析を通じて、貨幣が単なる交換手段を超えた社会の鏡であることを教えてくれる。

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