貨幣の額面と素材価値の乖離
本書の中心的なテーマの一つは、貨幣の額面価値と素材価値の乖離が、貨幣システムの設計やその社会への浸透にどう影響したかです。著者は、東アジアの貨幣システムが小額通貨(特に銅銭)を基軸に据え、上位額面を記号化する構造を持っていたと指摘します。たとえば、秦漢以来の中国では、良質な銅銭(開元通宝など)が農民の日常取引を支える「原子通貨」として機能し、その規格は1200年以上にわたり維持されました。一方、植民地ベンガルのパイス銅貨は高額通貨(ルピー銀貨)の補助的役割に特化し、素材価値の乖離が問題になりにくい体系でした。この対比は、貨幣の額面体系が地域や社会のニーズに応じて大きく異なることを示しています。
特に興味深いのは、額面と素材価値の乖離がもたらす経済的・社会的影響の分析です。元朝や南京国民政府の紙幣政策では、小額紙幣の供給不足が基層経済の混乱を招き、米や現地通貨による代替取引が広がりました。この事例は、貨幣の価値が単なる素材に依存せず、市場参加者による認知や取引の文脈に大きく左右されることを浮き彫りにします。著者は、こうした乖離問題をグローバルな視点で比較し、東アジアの貨幣システムが紙幣の早期発展にどう寄与したかを考察する点で、新たな理論的枠組みを提供しています。
基層経済と「通貨回路」の視点
本書のもう一つの大きな貢献は、基層経済への着目です。農民や小商人の日常取引を支える小額通貨の役割を重視し、貨幣供給が市場形成を促す動態を詳細に描き出します。たとえば、18世紀の守山藩(現福島県郡山市の一部)では、定期市の復活に際して藩札の発行が計画され、小額通貨の供給が市場の活性化に不可欠だったことが示されます。また、中世日本の定期市が中国銅銭の流入によって刺激された事例は、貨幣が市場を生み出す力を持つことを物語ります。
著者が提唱する「通貨回路(currency circuit)」の概念は、この基層経済の視点に新たな光を当てます。特定の地域や業種で特定の貨幣が優先的に使用される現象を指すこの概念は、紅海沿岸のマリア・テレジア銀貨や安徽省のスペイン銀貨建て取引を通じて具体化されます。これらの貨幣は、コーヒーや米穀の取引など特定の経済活動に結びつき、裁定取引よりも大きな利益をもたらすことで地域特化型通貨として持続しました。この分析は、貨幣が単なる交換手段を超え、地域の経済ネットワークや社会構造に深く根ざしていることを示す点で、従来の貨幣史研究に新たな視座を加えています。
グローバルな比較と貨幣数量説の再評価
本書は、東アジアの貨幣史を単なる地域史としてではなく、ベンガル、紅海、欧州(オランダの地方市場など)との比較を通じて世界史的文脈で捉え直します。たとえば、中世日本の定期市とオランダの地方市場の設立動向が、貨幣供給(銅銭や銀貨)の変動と連動していた点は、市場形成における貨幣の役割をグローバルに検証する試みです。また、貨幣数量説(貨幣供給の増減が物価を直接的に決定する)の限界を批判し、小額通貨の不足が物価の上昇や取引の縮小を引き起こす事例を詳細に分析しています。1936年のアデンでのマリア・テレジア銀貨の供給停止によるパニックや、15世紀中国の銅銭不足の影響は、貨幣供給と取引量が独立していないことを如実に示します。
このグローバルな比較史的アプローチは、貨幣史を単一地域や時代に限定せず、普遍的課題として捉える点で知的刺激に富んでいます。著者は、貨幣の流通が基層経済の末端にどう届くか、そしてそれが市場や社会にどう影響するかを、具体的な史料(『漢書』、オランダ東インド会社の記録、20世紀の農村調査など)を用いて丁寧に描き出します。
また、織田信長の撰銭令や江戸幕府の寛永通宝導入、朱印船貿易の停止など、日本史の具体的事例を通じて、貨幣政策が政治や社会インフラ(例:参勤交代、街道整備)と連動していたことを詳細に分析します。
読者への示唆
本書は、貨幣史に興味を持つ読者だけでなく、経済史や社会史を学ぶ人々にとっても示唆に富む一冊です。貨幣の額面と素材価値の乖離や、基層経済における小額通貨の役割は、現代の金融政策や地域経済の課題にも通じるテーマです。特に、貨幣供給が市場や社会の末端に届かなければ経済活性化につながらないという指摘は、現代の脱デフレ政策や地域通貨の議論にも響き合います。
結び
『歴史のなかの貨幣』は、貨幣が単なる経済的道具を超え、地域社会や基層経済を結びつける力を持つことを、緻密な史料分析とグローバルな視点で描き出します。額面と素材価値の乖離や「通貨回路」の概念を通じて、貨幣が織りなす地域と時代の物語を紐解く本書は、歴史や経済に関心を持つ全ての読者に推薦したい一冊です。貨幣の歴史を通じて、過去と現代の経済社会を深く考える契機となるでしょう。
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