『運は遺伝する 行動遺伝学が教える「成功法則」』(橘玲・安藤寿康)

『運は遺伝する 行動遺伝学が教える「成功法則」』(橘玲・安藤寿康、NHK出版新書)は、行動遺伝学と脳科学の知見を通じて、知能やパーソナリティが私たちの人生における「運」や「成功」にどのように関わるかを探る一冊です。文筆家の橘玲と行動遺伝学の専門家である安藤寿康の対話形式で展開される本書は、学術的な議論を日本の社会的文脈に落とし込み、一般読者にも親しみやすい形で提示しています。知的な好奇心を刺激しつつ、運と成功という普遍的なテーマを新たな視点で照らし出す本書の魅力について、予測可能な環境と未知の経験の対比を軸に紹介したいと思います。

知能の遺伝と「運」の交差点

本書の中心的なテーマは、知能やパーソナリティが遺伝的要因にどの程度影響され、それがどのように「運」や「成功」に結びつくかです。安藤は、一般知能(g因子)を「流動性知能」(論理的思考や問題解決能力)と「結晶性知能」(経験や学習による知識)に分け、脳の前頭前野と頭頂葉の同期(ワーキングメモリ)が流動性知能の基盤であると解説します。たとえば、レーヴン漸進的マトリックス検査を通じて、流動性知能が脳の特定部位の活性化と結びついていることが明らかにされています。このような科学的アプローチは、知能が単なる抽象的概念ではなく、生物学的実体を持つことを示唆します。

しかし、本書が独自性を発揮するのは、遺伝的素質が発揮される「環境」に注目している点です。予測可能な環境に安心感を見出す人々は、遺伝的知能を安定した枠組みの中で活かし、堅実な成功を追求する傾向があるとされます。一方、未知の経験に魅力を感じる人々は、遺伝的素質を新たな挑戦や多様な環境で試し、時に予測不能な「運」を引き寄せる可能性があります。たとえば、言語的知能が高い子どもは、自分の行動を説明することで社会的な軋轢を回避しやすく、未知の状況にも柔軟に対応できるとされます。この対比は、保守的な安定志向とリベラルな冒険心が、遺伝と環境の相互作用の中でどのように形作られるかを浮き彫りにします。

パーソナリティと社会適応

本書のもう一つの柱は、言語的知能とパーソナリティの結びつきです。安藤は、脳を「ベイズ統計的な予測装置」と捉え、過去の経験を基に未来を予測する人間の認知機能を強調します。言語的知能が高い人は、他者とのコミュニケーションを通じて自分の意図を明確に伝え、未知の環境でも適応しやすい。一方、言語的表現が苦手な人は、予測可能な身近な環境に留まることで安心感を得る傾向があるとされます。この議論は、保守とリベラルのパーソナリティが、単なる価値観の違いではなく、脳の情報処理や社会適応の戦略に根ざしていることを示唆します。

日本の文脈では、偏差値社会や教育業界のタブー(たとえば、知能の遺伝や境界知能に関する議論の回避)に光を当てる点も興味深いです。知能の分布が正規分布(ベルカーブ)に従うという統計的事実は、偏差値40~60の「普通の知能」を持つ人が人口の7割を占める一方で、偏差値60以上や40以下の人は少数派であることを示します。こうした現実を直視し、遺伝と環境の相互作用が個人の人生にどう影響するかを考えることで新たな視点を提供します。

運をデザインする視点

本書の白眉は、遺伝的素質と環境の相互作用を「運」として再定義し、それをどのように活かすかを提案している点です。橘と安藤は、遺伝が知能やパーソナリティに影響を与える一方で、どんな環境でそれを発揮するかが「運」を左右すると説きます。予測可能な環境に留まることで安定した成果を上げる人もいれば、未知の経験に飛び込むことで思いがけない成功を掴む人もいます。この二つのアプローチは、どちらが優れているというよりも、個々の遺伝的傾向と環境のマッチングが重要であることを教えてくれます。

たとえば、言語的知能が高い人は、異文化や新たな挑戦に飛び込むことで「リベラル」な成功を追求できるかもしれない。一方、予測可能な環境でコツコツと努力を重ねる人は、堅実な「保守」的成功を築くことができる。本書は、こうした多様な成功の形を認め、個人が自分の遺伝的素質と環境をどう調和させるかを考える手がかりを提供します。

知的でバランスの取れた一冊

『運は遺伝する』は、行動遺伝学の専門的知見を、日本の学歴社会や文化的傾向に適用することで、知能やパーソナリティが「運」や「成功」にどう関わるかを鮮やかに描き出します。橘玲の鋭い社会洞察と安藤寿康の科学的裏付けが織りなす対話は、読みやすさと知的な深みを両立させています。予測可能な環境を好む人も、未知の経験に魅了される人も、本書を通じて自分の「運」を新たな視点で見つめ直すことができるでしょう。

ただし、行動遺伝学や脳科学の理論自体は、スピアマンやキャッテルといった先行研究に依拠しており、専門家にとっては新しい発見よりも既存知見の応用に重きが置かれています。また、「運」という概念は魅力的なフックである一方、科学的に厳密な定義が難しい面もあります。それでも、遺伝と環境の交差点で人生を考える本書は、知的好奇心を刺激する一冊として、幅広い読者に推薦できます。

結び

本書は、予測可能な環境での安定と、未知の経験への挑戦という二つの道を通じて、私たちが「運」や「成功」をどう捉えるかを問いかけます。遺伝が与える枠組みの中で、どのような環境を選び、どのように生きるか。それが、私たちの物語を形作る「運」の本質なのかもしれません。知能やパーソナリティの科学に興味がある方、そして自分の人生の「運」を少しでもデザインしたいと願う方に、ぜひ手に取ってほしい一冊です。

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