『九鬼周造』(田中久文)

哲学と文学の境界を軽やかに越える九鬼周造の思想を、田中久文が丁寧に読み解いた『九鬼周造』は、偶然性という不確かなものを通じて人間の生と芸術を見つめる一冊です。

偶然性と詩学の交錯

九鬼周造は、偶然性を哲学の中心に据え、それが人間の倫理や芸術にどのように息づくかを探求しました。本書では、彼の代表作『偶然性の問題』を軸に、偶然と必然が織りなす世界を、論理的かつ詩的に解き明かします。たとえば、四葉のクローバーが生まれる偶然や、瓦が風船を破裂させるような出会いは、単なるランダムな出来事ではなく、異なる因果の流れが「邂逅」する瞬間として捉えられます。この「邂逅」という発想は、九鬼独自の視点であり、人生の不確かさを肯定的に受け入れる姿勢を映し出します。

特に印象的なのは、第六章「形而上学としての詩学」で展開される、詩と時間の関係です。九鬼は、詩を「重層性をもった質的な現在」と定義し、短い俳句の一瞬に過去や未来が折り重なる深い時間を描き出します。たとえば、「散る柳あるじも我も鐘を聞く」という句には、鐘の音とともに過去の記憶が蘇る時間が込められていると彼は説きます。さらに、日本語の押韻を巡る議論では、音の響きが現実を超え、個人の感情や意味から解放された「純粋な音」の世界を提示。こうした詩学は、西洋の論理と日本の美的感性が交錯する場であり、読者に新たな芸術の地平を開きます。

なぜ読むべきか

本書の魅力は、九鬼の哲学が単なる抽象的な思索に留まらず、人生や文化への深い洞察に結びついている点にあります。偶然性を「運命」として愛し、詩の響きに人間の深層を聴く彼の姿勢は、日常の中で予期せぬ出来事に直面する私たちに、柔軟でしなやかな生き方を教えてくれます。田中久文の解説は、九鬼の複雑な思想を明快に整理しつつ、彼の「武士的なエートス」や「暗黒なもの」との向き合いを浮かび上がらせ、読者に静かな感動を与えます。

どんな人に薦めたいか

哲学や文学に興味がある人だけでなく、日常の不確実さに戸惑いながらも意味を見出したいと願う人々に、この本は響くでしょう。九鬼の思想は、専門的な知識がなくても、人生の偶然や美しさについて考えるきっかけを提供します。たとえば、ふとした出会いや詩の一節に心動かされた経験がある人なら、彼の言葉に共感を覚えるはずです。

結び

『九鬼周造』は、偶然という不確定な糸をたぐり寄せ、哲学と詩学の織物として編み上げる試みです。九鬼の思想は、論理の厳密さと詩の繊細さを両立させ、読者に深い思索と静かな喜びを与えてくれます。この本を手に取り、偶然と美が交錯する世界に身を委ねてみてはいかがでしょうか。

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