『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』（三宅香帆）

三宅香帆の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』（集英社新書）は、現代社会の「働くこと」と「読書」の関係を、独自の視点で掘り下げる一冊だ。忙しい毎日の中で、「本を読みたいのに時間がない」「読む気力が湧かない」と感じる人に、まるで寄り添うような語り口で、問題の根っこを解き明かし、解決の糸口を提案してくれる。

読書は「文脈」を紡ぐ行為

この本の核となるアイデアは、読書とは単なる知識の吸収や娯楽ではなく、「文脈」を取り入れる行為だというもの。書店でふと手に取る本は、その時の自分の関心や悩みによって変わる。例えば、仕事に没頭しているときはビジネス書に目が行き、家庭の問題に悩むときは自己啓発書や小説に惹かれるかもしれない。三宅は、読書を通じて「他者の文脈」に触れることで、未知の知や新しい興味に出会えると説く。

特に印象的なのは、「知は常に未知であり、私たちは何を欲望しているのか分かっていない」というフレーズだ。読書は、計画的に「これを知りたい」と選ぶものではなく、偶然の出会いの中で新しい視点や欲望を発見するプロセスだ。この哲学的なアプローチは、読書を「予定調和ではない冒険」として捉え直すきっかけをくれる。

なぜ「働く」と本が読めなくなるのか？

では、なぜ忙しく働く現代人は本を読めなくなるのか？ 三宅はこれを、「文脈の余裕の欠如」と分析する。現代社会は「トータル・ワーク」とも呼べる、全身全霊で仕事にコミットすることを求める文化が根強い。長時間労働や副業、育児、介護などで心と体が疲弊すると、仕事以外の「文脈」を受け入れる余裕がなくなる。結果、読書のような「ノイズ」に感じられる活動が後回しになってしまうのだ。

この「ノイズ」という表現が秀逸だ。読書は、すぐに役立つ知識や情報を求める行為とは違い、遠く離れた他者の視点や価値観に触れるもの。それが人生を豊かにする「雑音」なのだ。しかし、忙しさの中で私たちはこのノイズを排除し、効率や実用性ばかりを追い求めてしまう。三宅の分析は、現代人の「忙しすぎる心」に突き刺さる。

「半身（はんみ）で働く社会」という提案

本書の最大の独自性は、「半身で働く社会」というビジョンの提案だ。三宅は、仕事に「全身全霊」を捧げるのではなく、時間とエネルギーを半分は仕事、半分は他の文脈（読書、趣味、育児など）に割り当てる生き方を推奨する。これにより、読書を含む多様な活動のための「余裕」が生まれ、精神的・知的豊かさが育まれるという。

この「半身」というコンセプトは、従来のワークライフバランス論とは一味違う。単に労働時間を減らすのではなく、複数の文脈をバランスよく持つことで、人生の豊かさを追求する視点だ。

また、三宅は日本社会に根強い「全身全霊」文化を鋭く批判する。徹夜で資料を仕上げるサラリーマンや、恋愛を犠牲にして野球に打ち込む高校生を称揚する風潮は、個人を疲弊させ、読書のような「余裕の活動」を遠ざける。「半身でいい、にわかでいい」と声を大にする三宅のメッセージは、現代社会の価値観に一石を投じる。

疲れたときは、休もう

もう一つ心に残るのは、「疲れたときは休もう」というシンプルかつ優しいアドバイスだ。読書や趣味に無理に取り組む必要はない。心と体が回復するまで休息し、余裕が生まれたときにまた本を開けばいい。この言葉は、忙しさの中で自分を追い詰めがちな私たちに、肩の力を抜く許可を与えてくれる。

この本の魅力とおすすめポイント

この本の魅力は、読書を「文脈」や「ノイズ」という新鮮な視点で捉え、働き方と結びつけて論じた点にある。

ただし、「半身で働く社会」の具体的な実現方法については、やや理想論に留まる印象も。政策や企業文化の変革など、もう一歩踏み込んだ提案があれば、さらに説得力が増したかもしれない。それでも、読書を通じて自分と他者の文脈をつなぐことの大切さを教えてくれる本書は、現代社会を生きる私たちに新たな視点を与えてくれる。

最後に

「働いていても本が読める社会」を目指す三宅の提言は、読書だけでなく、人生全体のバランスを考えるきっかけになる。「半身で生きる」ことを許容する社会は、きっともっと優しく、豊かなものになるはずだ。本書を手に取って、忙しい毎日のなかで少し立ち止まり、自分の「文脈」を広げる一歩を踏み出してみてはどうだろうか。