『実利論 古代インド「最強の戦略書」』(笠井亮平)

古代インドの戦略書『アルタシャーストラ』を現代に蘇らせた笠井亮平の『実利論』(文春新書)は、古代中国の『孫子』と比較しながら、カウティリヤの合理性とリアリズムを丁寧に紐解く一冊です。この書は、軍事戦略に留まらず、統治、外交、組織運営に至るまで、現代に通じる普遍的な智慧を提示します。

カウティリヤのリアリズムと『孫子』の対話

『実利論』の核心は、カウティリヤが説く「実利(アルタ)」の追求にあります。戦争や統治において、感情や衝動ではなく、冷徹な状況判断を重視する姿勢は、現代の戦略論にも通じるものです。特に印象的なのは、カウティリヤの「迷信の排除」の姿勢です。「星々に何ができるだろうか」と、星占いに頼る愚を断じる言葉は、利益追求こそが成功の鍵であると説きます。この点は、『孫子』の「廟算」――戦前に「五事七計」に基づく勝算を立てるアプローチ――と通底します。両者ともに、迷信や運に頼らず、合理的な計算と準備を重んじる点で一致しますが、カウティリヤはさらに詳細な分析を展開します。例えば、軍隊の士気を損なう「災禍」を36項目にわたり列挙し、その軽重を比較する緻密さは、『孫子』の簡潔な箴言とは一線を画します。

勝算の追求と現代的応用

カウティリヤの戦略思想は、単なる戦術論に終わりません。戦争を始める前に「能力・場所・時・損得」を検討し、戦力的に優勢な場合にのみ出征すべきと説く節は、現代のリスク管理や意思決定プロセスに直結します。この「勝算」の重視は、『孫子』の「算多きは勝ち、算少なきは勝たず」という言葉とも響き合いますが、カウティリヤは「気力」「権力」「政策能力」の優劣を議論形式で掘り下げ、特に「政策能力」を最上位に置く点で独自の視点を提示します。こうした能力主義は、現代の経営やリーダーシップにおいても示唆に富み、単なる軍事論を超えた普遍性を与えています。

『実利論』の独自性と魅力

本書の魅力は、カウティリヤと『孫子』の比較を通じて、古代インドの戦略思想を現代的文脈で再解釈する点にあります。笠井亮平は、カウティリヤの詳細な分析(例えば、軍隊の内部分裂や補給の遮断といったリスク要因の分類)と、『孫子』の簡潔で哲学的なアプローチをバランスよく対比させ、両者の文化的背景を丁寧に解説します。『実利論』の「迷信の排除」は、当時のインドの星占い文化を背景に、科学的合理性を追求したカウティリヤの先進性を浮き彫りにし、現代のデータ駆動型意思決定に通じる教訓を提供します。一方、『孫子』の「勝算」は、簡潔ながらも戦略の核心を突く普遍性を持ち、両者の対話を通じて戦略思想の多面性が明らかになります。

読者への一言

『実利論』は、軍事や歴史に興味のある読者だけでなく、経営者やリーダー、戦略に関心を持つすべての人に推薦できる一冊です。カウティリヤの緻密なリアリズムと『孫子』の簡潔な智慧が交錯する本書は、古代の知恵を現代に活かすヒントを与えてくれます。迷信に惑わされず、勝算を見極める姿勢は、現代社会の複雑な課題に立ち向かうための確かな指針となるでしょう。落ち着いた文体で綴られた本書は、知的好奇心を刺激しつつ、戦略の本質について深く考えさせられる一冊です。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

CAPTCHA

目次