『雨の日の心理学』(東畑開人)

東畑開人著『雨の日の心理学』(角川書店)は、ケアという行為の深層に潜む心理的・社会的な葛藤を、静謐かつ鋭い筆致で描き出す一冊です。ケアとは、誰かを支える温かな行為であると同時に、提供者自身を孤独に追い込み、社会から見過ごされがちな「見えない労働」でもあります。本書は、心理学の「逆転移」とフェミニスト哲学の「依存労働」という二つのレンズを通じ、ケアのつらさとその背景にある社会構造を丁寧に紐解きます。知的でバランスの取れた視点から、ケアの価値と課題を考えるきっかけを与えてくれる本書を紹介します。

ケアの心理:逆転移と内なる葛藤

本書の出発点は、ケアする人の心に生じる複雑な感情を心理学的に分析することです。東畑は「逆転移」という概念を用いて、ケア提供者が対象者に対して抱く無意識の苛立ちや罪悪感を解説します。たとえば、介護中に親を「憎い」と感じてしまう瞬間や、部下の支援に疲弊する管理職の心情。これらの感情は、ケアする人が自己を「悪人」と感じ、他者と共有できなくなることで孤独を深めます。本書は、こうした感情を言語化し、自己認識を通じてケアの負担を軽減する道を示します。この分析は、ケアの個人的なつらさを可視化し、読者に静かな共感を呼び起こします。

見えない労働:依存労働と社会の評価

東畑の議論の独自性は、ケアを「依存労働」として捉えた哲学者エヴァ・フェダー・キテイの視点を取り入れ、社会構造への批判を展開する点にあります。ケアは、育児や介護のように誰かの依存を引き受ける労働ですが、社会では「労働」として十分に評価されません。たとえば、企業で上司が部下のメンタルケアに尽力しても、それが業績評価に反映されない現実や、母親の育児が「仕事」と見なされない文化的背景。本書は、こうした「見えない労働」が、男性中心主義的な社会構造に根ざしていると指摘し、ケアの価値を低く見積もる社会のあり方に疑問を投げかけます。

ケアの孤独と社会の課題

本書の核心は、ケアする人の孤独を、個人と社会の両面から捉える点にあります。逆転移による内面的な孤立と、依存労働が社会的に軽視されることによる疎外感は、ケア提供者を孤立させます。東畑は、ケアのつらさが「見えない」理由を、社会がその価値を認めず、評価の仕組みが追いついていないことに求めます。たとえば、企業での部下のケアは「成果」として数字に表れず、ケアが得意な上司ほど負担を背負い、報われない。この構造的問題を認識することが、ケアを持続可能にする第一歩だと説きます。こうした分析は、ケアを個人だけの問題ではなく、社会全体で向き合うべき課題として再定義します。

読者への示唆:ケアを可視化する希望

『雨の日の心理学』は、ケアのつらさを嘆くだけでなく、その価値を再評価し、社会の仕組みを見直す希望を提示します。東畑は、ケアを支えるためには、まずその「見えづらさ」を直視し、社会の問題として認識する必要があると強調します。心理学と社会学の架け橋となる本書の議論は、ケア提供者だけでなく、組織や政策に関わる人々にも実践的な示唆を与えます。たとえば、ケアを評価に組み込む仕組み作りや、ケアする人のメンタルサポートの重要性。落ち着いた語り口の中にも、ケアをめぐる社会の変革への静かな情熱が感じられます。

総評

本書は、ケアという普遍的な行為を、心理学の繊細な分析と社会学の構造的視点で描き出した珠玉の一冊です。「見えない労働」としてのケアが抱える孤独と、社会の評価システムの限界を浮き彫りにしつつ、読者にケアの価値を再考するきっかけを提供します。東畑の文体は、感情に訴えかけつつも過度に感傷的にならず、知的なバランスを保ちながら議論を展開します。ケアに携わる人、組織で人を支える立場にある人、そして社会のあり方を考えるすべての人に推薦したい一冊です。

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